新宿東口にあった古い土蔵作りの喫茶店。夏は、クーラーはなくても、打水がされ、水盤に水が張られていて涼しかった。冬は、コートは脱げなかったが、火鉢に熾った炭の香りが暖かかった。いかにも頑固そうな店主は、おそらく美術系出身で、50代か60代。我々汚い格好をした若造が入って行くと、「ちぇっ今日は駄目だね」と、年配の客に囁くのだった。ある日一人で店に入ってくつろいでいると、彼はいつものように無口だったが、知り合いの客に向かって「ボワイエが死んだね」と言った。「ああいう人はいないね。」「もういないね。」今までただの頑固じじいだと思っていたが、一瞬白黒の画面にフォーカスで、じじいが浮かび上がった。ほどなくして、あるいは2、3年後だったか、閉店した。あの店がなくなってから、あの裏通りには行ったことがない。もう新宿という町には、裏通りなどなくなってしまっているかも知れない。