ツィンマーさんのパン
『ツィンマーさんのパン』
私は、東ドイツM市の中央広場で、呆然と、明かりの消えた楽器屋を覗き込んでいた。音楽祭のあるM駅のつもりが、手前の似た綴りの駅で下車してしまい、次の電車もなく、宿もなかった。駅で眠るかと思い始めた頃、楽器屋の奥から彼が出て来た。顔中髭だらけでツィンマーさんと言った。小さいが宿もやっており、朝食付きで、値段も格安。やはり音楽祭に来た、二人のベーシストも泊まっていた。 すぐに横になったが、夜中喉が渇いて目が覚め、何か探しに階段を下りた。奥は、まだ明るかった。ドアの隙間から覗くと、大きなツィンマーさんが街を見下ろしていた。2m四方程の壁で囲まれた、この街のようだが、精巧なジオラマである。中に、小さな耕耘機、鋤や鎌、小さな人形を何体か置き、ヴァイオリン型の酒瓶に入ったシュナップスを振りかけると、それらは、きびきびと動き始め、耕し、種を撒き、芽が出、小麦が実ると、それを刈り取り、脱穀し、製粉機も動き始める。瞬く間に、一抱え程の小麦粉ができた。彼は、それでパンをこね始めた。私は、そこまで見ると、そっと部屋に戻った。 グーテンモルゲン!とノックする音で起こされた。結構な時間っだので、ばたばたと身支度し、焼きたてのパンの香りを後に、電車に飛び乗った。 音楽祭の間、演奏会やパーティーで多くの音楽家と会ったが、同宿だった二人のベーシストには再会できなかった。私は、それが気になり、もう一度あの店に行くことにした。 ドアを開けると、ツィンマーさんは、顔中髭を波打たせて抱きつき、その夜は甘いビールとチーズで歓迎してくれた。夜中に覗くと、前回と同じだった。 朝食の席に着いた私は、そういえばといって、昨日買っておいたパンを出した。そして彼が、苦いコーヒーを取りに行った隙に、パンをすり替え、まあ私のも一口と勧めたのだ。一口かじったとたん、彼はコントラバスになった。かなり大きく、ヘッドに熊の頭の彫刻が施され、素晴らしい音がした。私は、それを持ち帰り、その楽器を抱えて世界中を飛び回った。 数年後、青山の裏通りを歩いていると、白髪の老人が近づいてきて、「やあ、ツィンマー!こんなところにいたのか?」と笑い転げた。そして涙を拭きながら、「彼も、もう反省したそうだ。そろそろ許してやって下さらんか?」と言って、懐から出したシュナップスをコントラバスに振りかけた。すると、あの日と同じ格好でツィンマーさんが現れた。彼は、そのまま走って小さな路地に姿を消した。振り返ると、老人も消えていた。私は、その晩のライヴでは、小屋の楽器を借りた。 radio-zipangu.comni掲載された文章を転載。もとは唐代の伝奇小説の一つ、薛漁思「板橋三娘子」。恐れ多いが、格調高い泉鏡花『高野聖』も同じ話が下敷きになっている。
by Keizo-MIZOIRI
| 2007-09-06 19:08
| 物語
|
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